オレホヴォ=ズエヴォ (Orekhovo-Zuyevo)
オカ川の大きな支流・クリャージマ川のほとりにあり、周囲は深い森林地帯である. 首都モスクワからは東へ90km、最寄りの街であるドレスナとリキノ=ドゥリョーヴォからの距離はそれぞれ10kmほど.
オレホヴォ=ズエヴォの街は、1917年にオレホヴォ村、ズエヴォ村、ニコルスコエ村の三村が合併して誕生し、現在の地名となった. 人口は122,248人(2002年国勢調査).
オレホヴォ=ズエヴォ市は1917年にいくつかの村が合併して誕生した. 前身となる村のうち最古の村は13世紀初頭から存在したズエヴォで、モスクワの年代記には1209年の条で「ヴォロチョーク」(Volochok)の名で言及されており、ここでウラジーミル大公とリャザン公の戦いが起きたとある. 「ヴォロチョーク」とは古いスラブ語で「連水陸路」(川と川の間が狭まっている地点で、川から舟を引き上げて隣の川まで陸路で運ぶところ)を指し、クリャージマ川とネルスカヤ川の間を結ぶ道がここにあった. オレホヴォの村は17世紀後半には記録にあらわれている.
1797年、農奴のサヴァ・モロゾフという人物がズエヴォ村に絹織物工場を築いた. モロゾフは後に生産の重点を絹から毛織物へ移し、1823年には事業から得た収入で農奴の身分から脱却した. 1830年には工場をクリャージマ川の対岸へ移した. これが後にニコルスコエと呼ばれるようになった村である.
19世紀末から20世紀初頭、オレホヴォ=ズエヴォはモスクワ、サンクトペテルブルクに次ぐロシア第三位の繊維製造都市であった. これには1861年に開通したモスクワ-ウラジーミル間の鉄道がオレホヴォを通った影響も大きい. 1890年には17か所の工場がオレホヴォにはあった. 一方で1885年、モロゾフ工場ではロシア最初期の大規模なストライキが起きた. 1月7日に始まったストは数週間も続き、このストがロシアの革命運動に与えた影響は大きい.
十月革命の直前の1917年6月3日、オレホヴォ=ズエヴォ市が誕生した. 第二次世界大戦時にはオレホヴォ=ズエヴォは武器生産でソ連を支え、ドイツ軍が迫ったモスクワの戦いでは軍の病院などが置かれた.